2002年 5月   中曽根 康弘

聞き手  早野 透(朝日新聞社編集委員)


――  中曽根さんがまだ「やっちゃん」のころ、どんなもの読んでました。

中曽根  『少年倶楽部』ですよ。それから『譚海』というのがあったな。「明治大正文学全集」がうちにあって、ほとんど読んだ。国木田独歩や夏目漱石、田山花袋、非常にひかれましたね。

―― 花袋というと、『蒲団』を。

中曽根  花袋は群馬県人、館林の人なんでね。親愛感もあってね。独歩は「山林に自由存す」ですね。文章のキレのよさ、非常に魅力を感じましたね。

―― ご自分でも、文章を書くのは好きでしたか。

中曽根  小学生のころ、夏休みの作文が上毛新聞に認められ掲載された。母親を追っかけて、これを見てこれを見てと言うと、母は、やっちゃん上手上手と褒めてくれた。姉がそう言っていた。

―― 高崎中学四年から旧制の静高に。フランス語のクラスですね。

中曽根  あれはすべり止めでね、一番ビリっこのほうで入ったんでしょう、フランス語に回されたんです。

―― いいところでした?静高は。

中曽根  またいとこが先に理科に入っていて。静岡へ来いというのです。海がある。魚とくだものがあるというんだ。石垣イチゴがあった。男の学校は一つだけれど、女の学校が五つあるよ、割り当てがいいんだよ、そういう話をしていてね。

―― 寮の炊事部長をしたとか。

中曽根  あまり炊事部長になるのがいない。高等女学校に、献立の共同研究を申し込んだ。魚心に水心。それを掲示板を出したらワッと入ってきたね。

―― 共同研究なんて、後の中曽根政権の雰囲気を彷彿させますね。

中曽根  戦略があったね、あのころから。

―― その時代の読書は。

中曽根  河合栄治郎の『トーマス・H・グリーンの思想体系』、それから『善の研究』『三太郎の日記』。それと歴史哲学の本ですね。坂口昴とか大類伸、カントとかヘーゲル。耽読しましたね。

―― 河合栄治郎は、当時の著名な自由主義者。

中曽根  『学生生活』とか『第二学生生活』とか、そういうものを出していましたね。こんな厚い本を。

―― 中曽根首相当時、軽井沢での演説で、「負けても国家、勝っても国家」ってありました。なんとまあ国家主義的な、と思いましたが、いま聞くとヘーゲルの国家であるとか、歴史は理性であるとかいうようなにおいを感じもするな。ただの復古主義ではないなという感じも、実はしていたのですけれども。

中曽根  東大のころ、杉村章三郎教授の国法学を勉強しましたよ。それで「国家と栄辱をともにする」、そういう話をしたのです。

―― 中曽根政権の骨格は、このころ育ってますね。

中曽根  一貫してあるのは理想主義的人格主義、カント的なものですよ。つまり断言命令だ。限りない空を仰いで、しびれるような感動を覚えるものは、天の星と我が内なる道徳律だ、カントはそう言っていますね。
 我が内なる道徳律というのは、これは相対主義を超えた、普遍性を持ったものを言っている。ドイツロマン主義哲学に傾倒しました。それが新保守自由主義になっているわけです、政治家として。
 右翼とか反動とか言われ、風見鶏ともののしられてきた。しかし戦後、一貫して変わらざる一筋の道を歩んできたのは私じゃないですか、おそらく。

―― なるほど、おそれいります。中曽根さんの俳句に「俗論は潮騒のごと雲の峰」とありますよね。われわれも立場がないなという気もしますけれど。

中曽根  「したたかと言われて久し栗をむく」とかね、不敵なものを持っているわけです。「埋もれ火は赫く冴えたるままにして」。寝るときに火に灰をかけますね。しかし、朝が明けて、灰を除くとまだ赤く冴えたままにある。

―― 『パンセ』の話、ミッテラン大統領にでしたっけ、サミットで披露したら、向こうがびっくりしたというのは。『パンセ』は、フランス語の勉強で?

中曽根  『パンセ』のその本、ここにとってあるんです、わたしの本棚に。中世のフランス語ですからね、難しいものがある。随分苦労して、三分の一ぐらい訳した。「宗教に対する考察」とか幾つかの大事なポイントを訳しました。
J en vois ma jeune ame eternell. (この永久の若い精神を探求して)。本の扉に、私が書いたものだ。一九三七年七月と日付もある。

―― 東大法学部に進みましたね。

中曽根  岡義武さんの「欧州政治史」の講義を受けたんです。あの人は、優はほとんどくれないんだよ。だけど私は優をもらったからね。歴史哲学を読んでいたことが生きたんでしょう。岡義武の講義は人気があった。自由主義的で。

―― 往時、すぐれた学者がいた。

中曽根  我妻民法、小野刑法。小野刑法がカント的な世界なんです。断言命法、そういう道徳律というのを厳然と言い放つ。牧野さんの刑法と対立しておったな。牧野さんはプラグマティズム、教育刑のほうで、こっちは応報刑ですから。

―― 俳句との出会いは。

中曽根  六法全書ばかり見ていると人間は水分がなくなる。水分を埋めるには俳句がいい。そのころは『馬酔木』、水原秋桜子あるいは中村草田男、だいぶ読んでいました。

―― 句集ですね。

中曽根  句会には入らなかった。自分で一人でつくった。

―― いつごろから?

中曽根  東大の二、三年ごろから。

―― じゃ、全くの自己流。

中曽根  今でも自己流ですよ。だから、非常におもしろいというのね。こういう俳句は俳人にはできないって。

―― 雄渾な俳句ですよね。写生句とはまたちょっと違った。

中曽根  違う違う。梅原猛が激賞してくれるのは「菖蒲湯を王者のごとく浴びにけり」という句だね。五月五日の菖蒲湯。王者のごとく・・・・・。

―― 「眠り落つ妻の寝息や秋深し」

中曽根  うん、これは政治家の妻へのざんげの句だよ。
 俳句のことで一番よかったと思ったのは、私がフランスへ公式訪問したとき、その日は七月十四日、革命記念日だったんです。シャンゼリゼを大部隊が来る。ミッテランの脇に私も立たせられて、一緒に閲兵した。
 ものすごい雷雲、雷鳴だった。その中を、みんな勇敢に三色旗を持って行進した。それを詠んだのが「三色旗捧げ雷雨にたじろがず」。西山フランス大使が翻訳して、ミッテランに届けたんだ。で、その晩の革命記念日の大宴会で、ミッテランは、中曽根からこういう俳句が来たって読んだ。満場拍手だったって。それを小説家のサガン女史が。

―― フランソワーズ・サガン?

中曽根  激賞したと言う話を聞きました。フランスの愛国心をそそったわけですよ。

―― 私がボンサミットに同行取材したときに、中曽根総理が「枯葉」を原語で歌ったのを覚えています。

中曽根  同行の人々、パイロットやスチュワーデスたちへの慰労の席だったね。イブ・モンタンですね。学生時代、シューベルトの『ヴィンターライゼ』(冬の旅)もだいぶ覚えていたね。上智大学に夜間のドイツ語講座があって、そこに行って勉強したものですよ。

―― やっぱり勉強家だったんだ。それから海軍にいきましたね。

中曽根  これ、昭和十九年九月十三日写了と書いてあるでしょう。海軍の主計大尉のとき、台湾の高雄で、森の中の六畳ぐらいのセメント小屋を開けさせて、一人で住んでいた。蚊帳を持ち込んで、毒蛇が来るからガチョウを二羽一緒に飼って、そこで『山水経』を写したのです。『正法眼蔵』第十四巻です。『而今の山水は、古仏の道現成なり』と。アセチレンガスの下で、筆で書いた。

―― これはまたどうして。

中曽根  大学のころ、座禅を少しやった影響ですね、『正法眼蔵』は。禅は西田の純粋直観とか純粋経験、そういうものに通ずるんですよ。

―― これが谷中の全生庵での座禅につながる。政治家になって心の糧になった本はどんなものです。

中曽根  前奏曲があるんです。私は昭和二十一年秋、警視庁監察官だった。そのとき部下に、図書館からマルキシズム、特に組織論の本を持ってこさせて共同勉強した。毛沢東の『遊撃戦術』という本がありました。八路軍の遊撃戦術を書いたの。一番感銘しましたね。
 八路軍は日本軍と戦って、負けなかった。蒋介石の国民党を台湾に追い落とした。その基本は毛沢東の戦術から来ている。国民党軍の規律は腐敗していた。八路軍は、民家へ入るな、軒下に寝ろ、針を借りたら必ず返せと。農村を包囲して、都市へ攻め上げていく。敵が強いときには突撃するな、敵が弱いときに突撃しろ、一挙に追撃しろと。政治家になってからも私の基本戦略になっている。

―― 中曽根の陰に毛沢東あり!

中曽根  共産党対策は、あのころの警視庁における一番大きな課題だった。彼らの組織論、戦術論、それぐらいは勉強しなくてはということだった。

―― 後の自民党戦国史の攻防に役立ったわけですね。

中曽根  役に立ちましたね。猪突猛進しないんです。あの弾力性と柔軟性があったから、中国を制覇したのでね。今でも中国共産党にそれがあると思います。それをある程度知っていないで、こっちが硬直すると失敗するんです。こっちが『遊撃戦術』を向こうに使えばいい。昔の陸軍みたいなやり方ではだめなんです。
 勝海舟の『氷川清話』、非常にためになりました。人間の扱いとか時代の流れとか。六〇年安保の後、『メイキング・オブ・ザ・プレジデント1960』という本が出ました。セオドア・ホワイトという人が書いた。ケネディマシンをつくって、ケネディが大統領になるまでの逸話や戦略を書いたんです。それを渡辺恒雄君(後に読売新聞社社長)や、新聞記者だった氏家齊一郎君(後に日本テレビ社長)とかと勉強会をして読んだんだ。
 ケネディマシンをつくったのだから中曽根マシンをつくろうと。そのころから学者、経済人、新聞記者、芸術家、あらゆるジャンルの人たちとの付き合いを広めて、勉強会みたいな小さなグループを持っておった。それが総理になって、一遍に私の参謀に転化した。
 もう一つは、海軍ですね。旧海軍の、特に二年現役の大学出の連中が、みんな各省に帰って事務次官になったり。みんな応援してくれた。戦後の総理の中でも、ブレーンやらわき役が一番豊富だったのは私じゃないかと思います。

―― 戦後、それぞれの持ち場で背骨になってきた人が、五年間の中曽根政権のいろいろなところでかかわって。

中曽根  みんな花が咲いたね。ケネディの弟のロバート・ケネディとは仲良くしてね。日本へ招待しました。
 ロバートはアメリカの政治家のパフォーマンスを惜しみなく見せた。池袋のスケートリンクへ夫人と行ってみんなと一緒にスケートしたり、あるいは一杯飲み屋で労働組合の幹部と飯食って話したり。早稲田大学で『都の西北』を歌ったとか。日本の政治家にないマヌーバー、パフォーマンスを見せた。私には非常に栄養分になった。

―― 司馬遼太郎さんの本も中曽根政権のファクターになっている。

中曽根  『燃えよ剣』『竜馬がゆく』、昭和三十八年、三十九年です。日本が上昇気流にあったとき。明治の上昇気流と相通ずるものがあったんです。司馬遼太郎はある程度それに酩酊して書いているね、明治の興隆期に酩酊したように。

―― 酩酊して・・・・・・。

中曽根  四十四年ごろから『坂の上の雲』に入るんですよ。それはもう戦後日本の爛熟期ですね。

―― 戦後政治家にとって重なり合うものがありますね。

中曽根  必読の書と言ってもいいでしょうね。しかし奥さんが書いておったけれども、司馬さんは『坂の上の雲』は絶対映像にするなと言って死んだらしい。私の想像では、あれは映像にしたら、日露大戦争と明治大帝みたいなものになっちゃうんだ、戦記物に。低俗なそういうものにされちまうのを恐れたんだろう。
 『坂の上の雲』以後、彼はああいう歴史物は書かなくなった。あとは『空海の風景』『この国のかたち』『韃靼疾風録』などを書いた。

―― そうですね。

中曽根  彼は大阪外語の蒙古語ですから、アジア大陸の草原に非常に郷愁を持っておった。シベリア、あるいはカムチャッカ、日本と結んでいったんだね。モンゴロイドの運命に、非常に哀愁と共鳴を持っておったんだと思いますよ。

―― 中曽根さんは矢部貞治の政治学でしたね。

中曽根  矢部さんというのは、非常に人間的でむき出しで、飾らない。自分の信念と学問の言動というものとが一致していました。昭和十三年から十六年ぐらいまでの間は、矢部さんは非常に純粋性を持って、政治的な汚濁に染まっていなかった。
 蓑田胸喜という右翼に攻撃されたんです、矢部さんは。われわれは戦争に行っちゃったから、その後の彼は知らなかった。近衛のブレーンになって、大政翼賛会をつくったり、だいぶ右のほうへ動いたということでしたね。

―― 矢部政治学のいう共同体精神に心ひかれたとか。

中曽根  ゲマインシャフトと日本というものと合わせて考えたんですね、理論的な根拠を。彼はそのころ、一体的共同体と言っていました。民主政治と言わないで、衆民政と言っていた。

―― 戦後の僕たちは丸山眞男教授の流れが強いものがあります。

中曽根  近代的合理主義だね。しかしあの人は非常に柔軟性を持っておったんだな。

―― 個人だとか市民だとか、日本の戦後に植えつけていった。最近の政治では、鳩山由紀夫とか菅直人の流れ。

中曽根  『市民』ね。

―― 『勝っても国家、負けても国家』の中曽根さんは、どう思いますか。

中曽根  市民というのは、反権力のイデオロギー的虚像だ。パリコミューンの反逆の議論ですね、民衆蜂起というような。しかもかなり程度の高い、ブルジョアジーの世界です。そういうものには限界がある。そういう抵抗的なもので、今の日本を律していいかと。
 彼らが訴えようとしているのは個人主義だ。しかし、個人主義は欲望主義になるんですよね。個人主義を制御するディシプリンというものは、個人主義の中からは生まれないのじゃないか。

―― なるほど。

中曽根  生まれない。丸山眞男はそこは肯定しているんだね。そこに彼の悶絶するところがある。
 そういうものを制御するのはどこか。西部邁は歴史だと。人類の経験の蓄積が歴史になる。歴史は垢みたいなところがうんとある。その中から、歴史そのものではなく、英知を汲み出す。私はそれは正しいと思っている。
 市民というのはまだ浅い概念だ。野党概念、権力に対する反抗理論ですよ。特に『市民』をいうのは、菅君でしょう。あれは武蔵野市の、山の手インテリブルジョアの理論なんですよ。ちょっと格好はいいし、清潔で上品さを装っている。
 私や自民党は庶民だ。地についたものは庶民だ。市民じゃないの、庶民なんです。魚屋さんとか、洋服屋さんとか、商店街のおやじさんとか、あるいはバイトをやっておる奥さんとか、そういう者の世界にフットライトを浴びせなければ政治じゃない。大きく包み込むものなんです。反抗ではないんです。鳩山君の友愛も、市民じゃなくて庶民に言わなくちゃいけない。

―― それは照れくさい。

中曽根  私は戦争に行って、二千人の徴用工員とすごし、敵前上陸もやり、爆撃も食らった。日本の下積みの人たちが、いかに純情で愛国心があるかを見た。そういう民衆を背景にして、マッカーサー司令部と対決しなければ通らん、役人ではだめだと。それで政治家になったんです。私の根底にあるのは庶民なんです。市民ではない。江戸の庶民なんです。


《対談後記―1997年1月》
はるけくもきつるものかな萩の原
 中曽根康弘氏は総理大臣のいすを射止めた時の感慨をこう詠んだ。氏には、政界の荒波を泳ぎ抜く氏とそれを観じている氏の二人がいる。
 「猛烈なスタートダッシュでいく。半年で倒れてもいい」。後藤田正晴官房長官ら田中派重用の仕事師内閣をつくったときから、金丸信自民党幹事長と組んだ「死んだふり解散」まで、氏の演ずる政治ドラマはシェークスピアの悪王のごとくだった。だがたぶん、氏のなかには、シェークスピア自身も棲んでいたのかもしれなかった。
 いま「歴史の法廷の被告」と自覚する氏は、「この法廷には弁護人がいない。自分で弁護しなくちゃ」と生き生きしている。氏の人生の完全燃焼への激しい意欲は、氏のこの句に凝縮している。

 くれてなお命の限り蝉しぐれ



(本文は、朝日新聞社 編集委員 早野透氏の対談集『政治家の本棚』に掲載されたものです)
  俗論は潮騒のごと雲の峰