| 2005年 2月21日 中曽根 康弘 |
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松本 憲法の話から直接入らないかもしれませんが、インドにいる間にこれ(世界平和研究所憲法改正試案)を読ませていただいて、やはり風土的な問題や国柄というものが、風土や歴史、文化に非常に大きく関わっていることがよく分かったということがありました。今回の憲法改正試案を読んでいたら、ちょうど「北東アジアの太平洋の波洗う」という、ちょっと詩的な文言から始まっていて、日本というのはそういう自然風土を持っている国で、そこの中で歴史経験を積み重ねてきたということが書かれておりました。例えば「太平洋の波洗う」というふうな形で言うと、この言葉、あるいはこういう連想をどこから汲み取ろうとしたのか、あるいは、なぜこういう文言を入れようとしたのかということをまずお伺いしたいのですが。 中曽根 一つは、今までの憲法案、あるいは憲法の前文は、ほとんど法規範用語の羅列に過ぎない。あるいは、希望や願望の表現に過ぎない。それは前文ではない。やはり前文というのは国家像全体、それが過去の国民、今生きている国民、未来の国民、それから、それらの人たちが生き抜いてきた東アジアの列島の生活空間、そこへ織り成してきた人間社会模様、そういうもの全体を包んだものが前文になければ嘘だろう。言い換えれば、文化的・歴史的共同体、あるいは一種の生命的共同体と言ってもいい、そういうものの作っている一つの精神性、それと同時に、過去から現代、あるいは未来に向かって生き抜いていくその生活の仕組み、すなわち国家構造、それとうまく噛み合わせて作ったのが日本国家というものであって、後の部分は割合に合理主義的な国家機構というものが入ってくる。しかも、明治憲法あるいは現在の昭和憲法が作り出した歴史的意味というものも、我々はよく知らなければならない。淵源を訪ねれば、聖徳太子の十七条憲法もあるし、五箇条の御誓文も淵源にはあるのだ。そういう意識のもとに、あの前文を書いたものです。 松本 憲法というと、おっしゃったように、法律的な意味だけが捉えられますが、実は国柄――英語に訳せばコンスティテューションですから、コンスティテューションの訳は「憲法」とも訳されるけれども、古い言葉で言うと「国体」とも訳されるわけです。すなわち「国柄」のわけですから、憲法前文というのは、この国はどういう形で成り立っているのか、民族はどういう形で生きてきたのかということを踏まえた上で、法秩序というもの、あるいは国家原理――大きな形で国家原理が出てこなければ意味がありません――それが戦後の憲法の場合にはほとんどなかったということです。一人の個人がいて、それが今度そのまま国際社会に吸収される、あるいはそこの秩序の中の一員になるという形でしか書かれておりませんから、言ってみればコンスティテューションの意味というのがほとんど捉えられていないというところがあったわけです。 中曽根 「東北アジア」という表現も素案の一つにはあったわけですが、「東北アジア」というと、朝鮮半島や中国の東にある狭い観念がどうしても出る。あまり使わない「北東アジア」と言うほうがアリューシャン列島から太平洋まで含むような広がりを持っている。そういう意識がありまして、「北東」という名前にしたわけです。 松本 最近、「東北アジア」という言い方から「北東アジア」というふうに変えられたことがありまして、それは多分、日本の中の東北というのは、東北地方の名前もそうですけれども、方位でいうと艮(うしとら)なのです。艮は鬼門という形で、大体そのところは家の中でも封じて、鬼門から鬼が入ってこないように、あるいは災いが入ってこないようにというような形で、日本の場合には東北地方というのが北で寒くて、米ができなくて飢饉になってと、そういうふうに東北というのは使われることが多い。あるいは大本教などでも艮の金神と言いまして、あそこを封じてしまって、逆にそこを抑圧してしまったから日本は悪くなっていったと。だから、大本教などで面白いのですけれども、「福は内、鬼は外」という節分の掛け声が、鬼を閉じ込めてしまったから、むしろ「ゆがみ」や「ひずみ」や不正が出てきたり、差別が出てきたのだということですから、節分の時には「福は内、福は内」なのです。そんなこともあって、「北東」という意味を使われたのかと私のほうでは勝手な連想をしておりまして、今のおっしゃる言葉で聞きましたら、アリューシャン列島からずっと連なってくるという形で東アジアに通じる、そういうイメージがあるというのがよく分かりました。 中曽根 大体、明治憲法自体は、日本国家の地平線を見た要素が強い。それから、今ある昭和憲法、マッカーサー憲法は、ある意味において世界的視野に地平線を広げた要素がある。地平線は広げたけれども、何をやるか、こちらの主体的意志がほとんど明らかでないのです。 松本 地平線を広げるということは、要するに、自分がいる場所は何なのか、自分とは何なのか、我が国は何なのかということを押さえた上でないと、世界的な視野というのは本当は持てないし、それから世界に何かできるということも発想できないということですね。 中曽根 そうです。世界的視野というものはもちろん前提にあるけれども、やはりアジア太平洋という観念が私らの頭にあって、昭和憲法はどちらかといえば地域性がない、抽象的な世界性しか持っていない。しかし、私の場合は、やはり北東アジアというかなりの地域性を出している、そういう意識があったわけです。 松本 それが非常によく分かりました。場合によっては、太平洋の波洗う美しい日本の風土という展開になってくるわけで、これを最初に読んだ時には、私は藤田東湖の「正気の歌」――日本の精神は突出すれば富士の高嶺になるし、水に流れて流れ出せば利根川になって、そして太平洋に注ぎ込んでいくという日本精神の精髄を、そういう自然的な風土、あるいは美意識に結び付けていくというのがありましたので、これは似ているかなという気を持って読みました。 中曽根 ある学者はこれを読みまして、前文の印象というものは、豊葦原の千五百秋の瑞穂の国という古事記に出てくる日本の明るさが思い出されたと。豊葦原の千五百秋の瑞穂の国というのは、「太平洋の波洗う」とやや共通するものがあるとこの学者は感じたようです。こういう感じを持った人もいるのかなと、今までの前文とまるきり変わっているから、あるいはショックを受けたかもしれないと思いました。 松本 そういう言葉自体に、日本の自然の中で育まれた世界観や美意識が入っているということだと思うのです。それが多分、第一条の天皇の条項がまず出てくるというのに繋がっていくのではないか。一見して、第一章「国民主権」、そして第二章「天皇」となってくるわけで、これはひょっとすると読売の憲法試案に近いのかなと。読売の憲法試案の非常に特徴的なところは、現行の戦後憲法の第一条というのが「国民主権」で「天皇の地位」という、ある意味ではダブルスタンダードを明らかに二つに分けてしまう。しかも(読売憲法試案で)最初に出てくるのは「国民主権」で、国民主権国家という意識を明確にする、そして天皇条項というのは第五条から始まってくる。そういう意味で、ある意味では戦後の憲法に対する挑戦であったし、ある意味では国民主権を明確にする、それをまず日本の国柄の象徴としてしまうようなラディカルさもあったわけです。しかし、それだけでは日本の形というものは捉えられない。少なくとも天皇条項を抜かして国民主権というものが成り立つという発想自体はおかしい。 中曽根 おっしゃるとおり、一番苦心したところで、ある意味においては勇断を下したというところです。 松本 つまり法律条項から抜けているというか、それを超えてしまっているところが第一条になってきますね。 中曽根 そうです。それで、第一条はやはり国民に主権が存する、その上に立っての国民統合の象徴と言っている。そういう表現になっているので、ここで大事な点は、よく憲法論に主権在民という言葉がよく使われるのですが、私のこの中には主権在民という言葉は一つもない。国民主権という言葉でやっている。つまり主権在民という形になると、国の歴史や伝統、文化というものから離れてしまって、ややもすればフランス革命で王政を倒して、ルイ王朝を倒して、革命勢力が主権在民というものでやった。しかし、あまり行き過ぎてはいけないというので、ある程度の制限を設けたのだけれども、またそれを外してしまって、ああいう暴虐、残虐行為まで入ってしまった。そういう歴史も頭にあったもので、主権在民という絶対的な、要するに絶対君主の力を倒して、フランス革命が絶対民主をやったわけです。その延長線上にある考えではないのだと。国民というものは歴史と文化と伝統を持っている。そういう住民の歴史的・文化的集合体としての意識が初めから終わりまで貫かれてある。そういうことを実は言いたかったのが一つあるのです。 松本 つまり、その後の天皇条項というのは、要するに法的な規制の問題で、国民主権も法律的な規定の問題になりますけれども、その法律的な規定を超えたところ、つまりコンスティテューション、国柄の問題のところを最初の第一条で出されたということになりますね。 中曽根 そうです。あとは、だから、ある意味においては事務的な存在の感じがしているわけです。 松本 もう一度、天皇条項の第一条のほうに戻りますけれども、その前に、言ってみれば、天皇の権利や天皇の権能というもの、それが何か国事行為を行う時には、今までは全部「内閣の支持によって」とか「内閣の決めたところによって」などと書かれていたのが、今回は「内閣総理大臣」という形で、ほとんど世俗的な権能というもの、政治的な権力というものは一応全部、内閣総理大臣が決裁をする、あるいは決断をする、行使をするという形になっているというところが非常に明確になっているのではないか。要するに、中曽根さんのいつもの持論であるところの、大統領的な首相というものですね。 中曽根 その点は意識的にやっているので、要するに天皇という場合には、歴史的・伝統的・権威的存在だと。総理大臣という場合には、事務的・機能的統合力としての存在である。その差を明確に意識してあるわけです。ですから、別に矛盾はないと思っています。 松本 むしろ私は、そこの「内閣総理大臣が全てを世俗的な権力として行う」というところを読みまして、こういうことを思い出しました。明治の日清戦争の時に広島大本営に明治天皇が白馬でお入りになるのですが、それを見ていた柳原二位局という大正天皇のお母様が泣くわけです。天皇というのは、今の言葉でいえば日本の国柄の象徴みたいなもので、そして日本の連続性というもの、民族の統合性というものを象徴するものであって、軍事や財政、外交、内政といった仕事は下々のする仕事だと言うのです。それで泣くところがあるわけです。ですから、そういうものは世俗的な権力の行為ですから、言ってみれば、内閣総理大臣が最終決断をして行使をする。けれども、それを常に見守っていて、お認めになるという形で天皇という超世俗的な、あるいは神聖的な──そういうふうに言うと、神聖天皇制のように言われるかもしれないけれども、そういう象徴性、言ってみれば民族の神聖性──我が日本の「清潔の民」という言葉がありますけれども、それを象徴しているような存在であるということが明確になる形で、多分、内閣総理大臣の役割がかなり強調されているのではないかと拝読しました。 中曽根 そう思います。 松本 一つ、これは質問というよりも、どうかなというところがありまして、それは第一条のところに戻るわけですけれども、「天皇は、国民に主権の存する日本国の元首であり、国民統合の象徴である」というところになりますと、今おっしゃった象徴的元首というのと少し違うと思うのです。今のお話だと、象徴的元首という形でおっしゃると、象徴的元首の場合には、多分政治的な意味でのヘッド、元首というのと少し違うと思うのです。この場面だと、国民統合の象徴というのは、当然今の憲法も踏まえているわけですけれども、「日本国の元首であり」ということになると、西欧的な翻訳をされますと、完璧に政治権力の主体である、もしくは政治的なヘッドである、そういう印象が強くならないかということがあるのです。ですから、むしろここのところも「日本国の象徴的元首であり」という形のほうが権力から一度切れているということが明確になるのではないかというふうな印象を抱いたのですが。 中曽根 そういうお考えもあり得ると思いますけれども、やはり元首というものを第一条に持ってきた場合には、日本の文化的・歴史的伝統から持つ一つの権威というか、雰囲気というか、それを我々は大事に先祖から受け継いできたものであり、子孫に渡していくと、そういう感じが強くあったものですから。 松本 それは象徴であるということにおいては、全くその感じでいいと思うのですけれども、ただ、「日本国の元首であり」というふうになると、かなり政治的な意味が強くなるのではないでしょうか。例えば今も元首であるということであるならば、戦前の天皇制の天皇というのはもちろん元首ですけれども、そうすると戦争を起こしたのも、その責任をとっていくのも天皇である。だから、アジアの諸国では、まだ天皇が政治的に謝らない限り我々は日本を許さないというふうな糾弾の仕方も出てきてしまうと思うのです。ですから、政治的なヘッドであるというのではなくて、象徴なのであるから、政治的責任論などは生じないというふうに一度切っておかないと、まずいのではないかという印象を抱いたのですけれども。 中曽根 私の考えでは、日本の天皇というものは、ある意味において国家を代表している。これは外交使節を接受し、あるいは外国へ行った場合には国を代表する元首として扱われている。そういう日本の天皇が現に持っている一つのポジション、地位というものを、ある意味においては第一条に明確にしているのです。国を代表する存在であるということは、ある意味においては強調したいという要素が頭の中にあったわけです。 松本 それは当然のことで、我々国民は無意識的に了解していることだと思うのです。それは例えば、日本のパスポートを持っていく場合に、国旗が入っているということを考えるならば、当然、日本人は日の丸が入っているのではないかとなるのですけれども、そこに入っているのは日の丸ではなくて、菊の御紋なわけです。それは日本の国柄を象徴する者として天皇という存在がおられるということです。だから、日本の国柄であるというのは、要するに、ただ単に政治的な意味での国民国家という意味だけではなくて、民族的な連続性の象徴でもある、つまり権威である。そういうことであそこに菊の御紋が飾られているわけです。我々は普段使っていますから、そのことに無意識になってしまっているのです。お札に刷り込まれているのと同じようなもので、そういうことでは非常に規定がしにくい。つまり「国民」という言葉自体が実は百三十年くらいしか歴史性がないわけです。西洋まで含めても「国民(ネーション)」は、ナポレオンの国民軍や、あるいはフランス革命の辺りから出てきた概念であって、では、その前は「国民」という言葉がなかったから日本国民という言葉は使えないのかといったら、そんなことはないわけで、一種のカルチャー・ネーションですから、文化的に言葉によって統合性を持ってきて、そして日本というものを意識している国民という、概念はないけれども、そういう人々がいる、そういう共同体を持っているということですね。 中曽根 これは後で、総理大臣が状況によって議会と対立したような場合に、国民投票に訴えて、国民の判断をまとめて、法律が成立する、そういうこと等々が出てくる。憲法改正も同じ国民投票でこれをする。つまり、今の憲法よりも、国民投票というものを非常に重要視している。そして、少なくとも国民投票という民主的解決方法が明文化されているという点から見れば、国会議員による代議政体だけで国政が運用されるということでは十分でない。したがって、そういう代議政体、国民主権に基づく国民投票、この両立てで国政が賄われていく。それを明確にしておく必要があると思ってやったわけです。 松本 今までだと憲法改正の問題だけで国民投票、つまり国民の最終意思が問われるということだったけれども、実は首相を選ぶということにおいても、あるいは私の場合には首相がある意思決定をした場合、それはつまり法案を提出した時にそれを拒否されたということが書かれていましたけれども、それと国家の施政方針みたいなものがありますが、国家をどういう方向に向けていくのか、これは国家デザインのことに関わる問題であり、また歴史観の問題である、もしくは歴史哲学の問題であると思うのです。これを開陳した時に、例えば野党なり代議士なりが「それはどうかな」というふうなことを言った場合に、「いや、私は日本の国というものをこういうデザインで考え、しかも歴史的にはこういう方向に持っていこうと思う」というふうな意思を表明したけれども、どうもわさわさして落ち着かない。その場合に、それは極端に言うと、国民に最終意思を問う、「ここまで私は考えているけれども、これでどうだ」ということを最後に国民が問われるということになると、「我々の責任なのだ」と、そして「我々が本当に考えなくてはならないのだ」と、そういうナショナル・アイデンティティーの問題に関わる最終決定者は国民である、そうした場合に、国民投票によって問われる、そういう広がりというか、可能性を出しておいたほうがいいのではないかと。 中曽根 それを明確に規定したわけです。やはり総理大臣が主導権を握って国民投票をやるという場合には、議会と対立して法律を通す、そういう場合に限定しています。 松本 では、私が言ったところまでは踏み込まないということですね。 中曽根 もし政治的意思表示等に対する反対や何かがあった場合には、解散に訴える。そういう総理大臣の権限も与えられているわけです。解散というのはかなり無制限に与えられているわけですから、政治行為と、法律等に関する事務的な問題と、ある程度分けているわけです。 松本 そのご意思は非常によく分かりました。ただ私の頭の中にあったのが、例えば数年前、小渕(恵三)さんの時にやった国旗・国歌法ですが、国旗・国歌法というものは最終的に代議士だけで決めていいのか、国会だけで決めていいのか。極端に言えば何年か経って日本の国の名前を変えようではないかということを出した場合に、これは解散に打って出るとか、衆議院議員選挙だけで済む問題ではないと私は考えます。実際に今、法律で決まっているわけですから、法律を改正して新しい国旗にする、国歌にする、あるいは国名にするみたいなことになったら、これはやはり国民投票のようなものをして、たとえ五一%でも構わないから、国民が明確に意思を決定したというふうなことをしないと、それは国会議員が勝手に決めたのではないかということになる。今でも国旗・国歌法に反対している人が立ち上がらないとか、歌を歌わないという形になっているので、そこのところを考えると、国民投票制を生かすという非常に踏み込んだ発想をとられたので、そこはもう少し踏み込んでよかったのではないかというのが私の印象なのです。 中曽根 これは要するに、国民主権というものが強く謳われているので、その主権者たる国民の持つ権能と同時にプライドというか、名誉というか、責任というか、そういうものも明確にしておく必要がある。どちらかといえば国に対する責任というような要素も中に込められているわけです。 松本 それだけの国民投票までされるということの国民であるということになれば、当然それを決断し、行使する場合にはその責任を伴うということです。それをここのところで明確にしておこうということですね。 中曽根 そうです。 松本 それで大体の中心点、国家原理としての憲法の中心原理は明確になってくるのだろうと思うのです。これは戦後憲法との比較の問題になってくるわけですけれども、第三章で「安全保障及び国際協力」ということが言われていて、一番問題になってくるのは(現行の)憲法九条の問題だということになります。従来から中曽根さんは憲法九条の第一項は、つまり戦争放棄という内容の条項については、反対することはないと。 中曽根 不戦条約そのものである。 松本 それは歴史的に見れば、「国際紛争解決のための戦争は、これを放棄する」というのはパリ不戦条約や国際連盟の規約前文の中にも謳われているわけで、そしてまたそれを日本の場合には自らルール破りをした形で、国際紛争解決のための手段としての戦争を行ったという反省もありますから、戦争放棄という条項は生かしておく。それで、自分たちの民族的な戒め、歴史的な経験からそういう形で第一項はほとんど踏襲するということですね。 ただ、「永久に認めない」という、これはただ文言上のことで考えてよろしいのでしょうか。 中曽根 これは今までの言葉は適当でないという印象を実は私は持ったのです。「永久に放棄する」というのは、日本語として果たして適当な言葉であるかどうか。外国人が作った文章なら「放棄する」という言葉もあるけれども、今までの日本人の表現の場合に「放棄する」というようなことは馴染まない。そういう意味で「認めない」と主体性を強く出したものです。 松本 私は(平和研憲法試案の)第十一条の冒頭の主語が「日本国民は」となっているから、日本国民が国際紛争を解決する手段としては永久に放棄するという形でいいのではないかという印象があったわけですけれども、それは民族の主体性の問題として「これを認めない」ということですね。 中曽根 要するに「放棄する」というのは外来語の翻訳語だという印象があるものですから。 松本 外来語の印象ということだと、多分それは微妙な問題があるのではないかと思うのです。例えば西洋哲学の場合には、自分はこうなるということ、こういうふうに自分を作っていく、ビルディングしていくという発想があります。だから、西洋的な発想になると、生まれた時には何者でもなくて、教養も何もないわけですから、人間ではないわけです。ところが、いろいろな教養や社会のルール、共同体の伝統文化というものを入れて、結果として自分を作っていく、つまりビルディングス・ロマンで言うところのビルディングしていくわけです、建築していくわけです。だから、そのように自分はなっていると考えるけれども、これは西田幾多郎さんが使っている言葉なのですが、では、松は生まれた時から松ではないか、たとえ幼くて、葉っぱがほとんど出ていなくても、あるいは老木になって枯れて枝がなくなっても、場合によってはその瞬間に枯死しても、松は松である、竹は竹である。そのように人間は人間であるという考え方です。ですから、それは作っていくのではないのです。そういうふうに自分の本質を認識するというのが、つまり日本人なり東洋人なりの哲学なのだという考え方で、今のところの「放棄する」というのは、言ってみれば、他動的に言ってみれば「決定する」、そのようにされるという形になりますけれども、我々はそのように自己認識するという形で出てきているのかと、今のお話を聞いていて思いました。 中曽根 まさにそうです。 松本 それで、多分、議論を呼ぶのは、私の見解でも、第二項の「日本国は、自らの平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つため」、これは「国及び国民の安全を」というところが私は重要だと思うのですけれども、それと同時に、明確に武力を放棄するという戦後憲法に対して、あるいは武力の不保持ということに対して、今度は防衛軍を持つ。これは私の規定とほとんど同じ、あるいは認識とほとんど同じになる。ただ私の場合には「自衛軍」というふうに使ったほうがいいのではないか──これは用語上の問題になりますけれども、ここは明確に「防衛軍を持つ」という形で、現状の自衛隊の法的な認知というもの、つまり憲法に謳われていないものは、国家の原理の中に存在しないということですから、これを明確に国家の原理の中に謳い込む。謳い込めば、初めてコントロールができるということだと思うのですが、それでよろしいわけですね。 中曽根 そのとおりです。「自衛軍」がいいか、「防衛軍」がいいかと大分議論したのですが、やはり自衛軍というのは自衛隊の延長のような表現で、「自衛(セルフディフェンス)」という言葉自体が日本語に馴染まないで、むしろ占領軍から与えられたような感じがしている。日本語の流れから見たら、国家防衛ではないか。そういう意味において、素直な日本語にしたほうがいいというのが我々の考え方です。 松本 世界常識から言えば、自衛隊や自衛という言葉では、やはり軍隊というものは説明できないのです。かなり戦略的な問題、意味づけが入ってしまっているということがあります。実際に日本の自衛隊が出ていくと、海上自衛隊はほとんどの新聞がジャパニーズ・ネービーと訳されるし、ジャパニーズ・アーミー、エアフォースという規定になっているわけですから、国民意識の問題では自衛しかやらないのだと思っているけれども、あまりにも訳語と世界的な受け取り方の違いがある。つまり、我々が自らを考えているのと、世界が日本を考えているのとの開きが大き過ぎるということです。それで「防衛軍」にしたということですね。 中曽根 そうです。 松本 その下の「防衛軍」は、自国の防衛、自国民の防衛だけをするのではなくて、場合によっては国際的な平和を担う、あるいは人道上の支援を行う、そういう明確な意識を防衛軍の中に持たせるということで、しかもその場合には国際機関を経る、国際協調の枠組みの下での活動ということを明確に打ち出された。これは、やはりただ単に防衛軍という形で世界常識に合わせるということではなくて、これからの未来における、あるいは二十一世紀における日本の役割、もしくは防衛軍の役割ということで考えられたわけでしょうか。 中曽根 既に今の自衛隊ですらも、戦闘行為は行わないという範囲内において、外国に進出してインド洋、あるいはイラクに駐留する。今までの壁を破ったもので、ただ戦闘行為を行わないという意味において合憲であるという説明を政府はしているわけです。我々はどちらかといえば、憲法違反すれすれの解釈でやっている、そういう不安定な、曖昧なことはこの際はっきりやめようと。そういう意味で第三項というものを作って、「国際機関及び国際協調の枠組みの場合には参加できる」ということを明示する。そうなれば、自衛隊法、あるいは防衛庁設置法の中も変えなくてはいけない。今の自衛隊法などは使命は日本防衛しか書いていなくて、国際協力という面はおしまいのPKOか何かのところで、百何条くらいで出てきているようなものです。 松本 あるいはPKO法というのを別に作っている。それは、おっしゃるように、例えばスマトラ沖地震のところで自衛隊が出ていって人道支援、あるいは経済復興に協力するということにおいて、政府はそのように説明するし、国民も一応それで納得しているわけです。非常に明確に素早く出ていったということにおいては、誰も否定的な意見を述べていない。しかし、憲法という問題を考えると、原理を規定していかなくてはならないわけです。我々の意識とすると、あるいは政府の説明とすると、武力行使は行わないと言っているけれども、例えばバンダアチェというのは独立運動をやっているところですから、極端に言うと、政府軍と抵抗軍というか、ゲリラが両方ともスマトラ沖地震で大変な被害を受けたわけで、いざとなったら、もしかしたら戦闘行為が起こるわけです。そこのところに「我々は人道支援をやっているのだから、両方とも撃たないで」みたいなことを言ってもだめなわけで、そうしたら、いざとなったら自分の身は自分で守る、武力行使をしなければならないという事態は大いに想定できる世界情勢になってきている。特にアフガン戦争、イラク戦争、9・11テロの後はそういうことになっている。そうすると、武力行使ということはしないという説明をしていても、そういう事態に現実に巻き込まれる可能性はあるということです。だから、その場合には、日本は日本軍として、あるいは防衛軍として独自に攻防するというのではなくて、国際機関及び国際協調の枠組みという形で出ていくということを明確にされたということは、私は非常に大切なことではないかと思いました。 中曽根 その点は非常に大事な改正点だと、我々は認識してやったわけです。 松本 そういうふうな規定がないと、現実の問題としてはイラク戦争があったり、そういう意味で言うとスマトラ沖地震みたいなものがあるわけですから、そういう世界史の新しいステージが始まっているということも考えるならば、防衛軍という形で自国の中だけで守っているという形では、世界の中での軍隊の意味というもの、防衛軍の意味というものはなくなってくるわけです。恐らくこれからはそういう大きな災害や、大きく平和秩序が乱れる時に、相応の協力をしていかなくてはならない。そのためには憲法の中にこういう条項を謳っていくということが必要だということですね。 中曽根 これは行かされる自衛隊の身になってみても、やはり憲法上、明文の規定があって堂々と行けるのと、そうでなくて、憲法の解釈で、あやふやな状況のもとで行けるというのでは、士気的に非常に差があるし、自衛隊そのものの、防衛軍そのものの価値を問われるという要素があるわけです。ですから、そういう点は堂々と明文を作っておいてあげるという意味があったわけです。 松本 それは要するに、一人一人の隊員というものが明確に自分たちの置かれている状況、つまり国際秩序、あるいは国際機関の枠組みのもとで、きちんと国家の軍隊として役割を果たすのだという責務を担ってやるということですね。 中曽根 そうです。 松本 それに関する第四項というのは、これは結果論というか、内閣総理大臣に指揮権、監督権があって、武力行使を伴う活動を命ずる場合には、事前に、時期によっては事後にという形で、国会の承認を得なければならないというふうなことで規定されているわけですね。これは結果的にそういうことをしておかないとだめだということだと思います。 中曽根 そうです。 松本 大きく言えば、前段の第一、二、三項ということになってくるだろうと思います。 中曽根 そうです。 松本 これくらい自衛隊の、もしくは新しい防衛軍の規定がはっきりしてくるとなると、やはり国家は、自分の国は自分で守るし、その国家が国民を守るという規定になってくるだろうと思います。現状の戦後憲法のところでは、では、国民は誰が守るのか、あるいは国土は誰が守るのかということが全然認識されていないというか、規定されていないということになるわけです。その結果とすると、拉致をされても、国民を生命的な危険に陥れられても守るというふうな条項がどこにもないわけですから、自衛隊法の中にはそれはありますけれども、国家の原理としてそれを謳っていかないと、たった一人の国民でも国家は守っていくのだと明確に意識をとらないといけないと思うのです。 中曽根 基本的人権と言われている中に、やはり国家を防衛する責任を有するという言葉が入っているわけです。第三十五条「すべて国民は、国の平和と独立を守る責務を負う」。責務という言葉をここで使っているわけです。 松本 今の基本的人権のところで面白いと思ったのは、「何人も、生来の権利として、すべての基本的人権を享有する」ということが謳われて、「前項の権利は、権利の性質上制約されるものを除き、外国人に対してもひとしく保障される」という項が付け加えられているということです。ここはどういう意識なのでしょうか。国民国家だから自分の国の国民だけを守ればいいという考え方がありますが。 中曽根 これは非常に大事な改正点として、基本的人権は生来の権利として、全ての人に存することを確認していて、その意味において、世界的普遍性を持たせた人権概念というものを書いておき、それはしかし、日本にいる外国人にも権利は保障すると明文化しておいた。そういう意味で、今までの日本の憲法にない条項をここに入れてきた。そういう意味で、注目していただいてありがたいと思います。 松本 これは非常に明確な世界性を持った考えです。それは具体的な問題としてみますと、今日本の中にイスラム教徒というのは七万人いるのです。四万人がもちろんイスラム圏から来て日本に居住している労働者たちです。ところが、日本人であって、イスラム教徒と結婚したり、あるいは自分の自由意思でモスクに出入りしてイスラム教徒になってしまうという人が三万人いるのです。結果とすると七万人いるのです。日本人である人は信仰の自由は認められますけれども、言ってみればイスラム教徒が日本に来ている限りは、シーア派だとか何とか、キリスト教から差別されるとか、そういうことはなくて、全ての人に信仰の自由が与えられるという国であるということを明確にする。あるいは、勝手に「お前は自国民ではないのだから、強制送還する」とか、そういうことはできない。つまり、基本的な権利は認められるという形を考えていかないと、在日朝鮮人の問題だけではなくて、現在のイスラム教徒とか、それは難民の状況であったりするわけですから、国に帰れない状態の人々というのが随分出てきているわけです。そういう人たちに対して、日本国籍は有しないけれども、日本国民と同じ基本的人権が保障される、あるいは等しく保障される、そういうことを明確にしているというのは、やはり非常に新しい、グローバルな、つまり国民国家というレベルを少し超え始めている側面だと思いました。 中曽根 そうです。これはやはり行き過ぎた国家主義というものを反省して、本来の人権というものを自覚して、自国民の権利と同様に他者の権利も尊重するという相互性をここで明らかにしておいた。ただし「権利の性質上制約されるものを除き」という条項を入れて、安全を維持しておいた面があるわけです。 松本 ですから、具体的な問題としては、今イスラム教徒の問題を出しましたけれども、戦前の反省に立つならば、日本国民として例えば囲い込んだとすると、日本国民は日本名を持つのだという形で、朝鮮民族に対して創氏改姓を強要するなどというのは、これは日本国民に対してそういうことは言わない、日本国民に対して「お前の姓は難しいから」とか「威張っているから」とか──意味的には威張っているようなものもありますから、それを改正しろというようなことは言ってはいけないのだ。そういう権利は、自分たちの固有の姓を、伝統的に一氏族として持っている姓を規制するなどということはあり得ないのだ。もちろん権利の性質上、制約されるものというのは、それは創氏改姓の問題などではなくて、例えば私が思いついたのは、一時「悪魔」という名前を子供につけるのは親の自由ではないかと言って抵抗した人がいまして、これは日本国民の国民的な理性の問題として考えて、名前は自由につけるのだ、それも親がつけるのは自由だと言って、主張を貫徹することはできないということがあると思いますので、それは権利の性質上、制約されるというのはあるということは考えざるを得ないと思います。しかし、外国人に対しても、これは参政権を与えるということではなく、基本的権利を与えるということだと思いますので、ここのところは、私は驚きに近いような意識で受け止めました。ついでに言うと、このところでは直接関わりはないわけですけれども、外国人の参政権の問題はいかがでしょう。 中曽根 これは憲法上、「権利の性質上制約されるものを除き」としてあって、私は個人としては地方自治体への参政権は否定しています。 松本 重要な項目であり、しかも重要な改正点、もしくは非常に新しい問題意識というのが、私の知っている限りにおいてはフォローした感じがするのですけれども、中曽根さんのほうでここのところをもう少し注目してもらいたいのだというところはありますか。 中曽根 それは、特に今、基本的人権のところでは、やはり家庭の条項を入れた。それから新しい人権として「人格権」「環境権」「創造活動の自由及び知的財産権の保護」、それと同時に国民に国の平和と独立を守る責務を認めた。これは全く新しい条項でしょう。 松本 「総選挙は、衆議院議員選出と内閣総理大臣推挙のために行われる」ということですね。この「内閣総理大臣推挙のため」というのが、結果的に言うと、今までは国会議員がそれぞれの派閥なり、場合によっては密室でキングメーカーが作るとか、あるいは何人組が作るといった不透明な、あるいは不正な感じのする選ばれ方をした。結果的に言うと、国民支持としては七、八%しかない首相が選ばれてしまうというふうな事態がありましたけれども、今度の場合には、これは要するに政党が衆議院選挙をする場合に、首相となるべき人、その顔を具体的に決めておくということですね。 中曽根 はい。これは第七十四条で、「総選挙は、衆議院議員の選出と内閣総理大臣推挙のために行われる」と、二つの目的があるということを明確にして、政党は総選挙に際して内閣総理大臣候補を明示しなければならない。だから、各党は選挙の際に「次の総理はこれだ」と明示する。 松本 ヘッドを出しておくわけですね。 中曽根 出せない場合には、これは出さない。連立内閣を作ろうという場合も、出さない者は出さないでもあり得る。しかし、一応はみんな出さなくてはならない。 松本 出していけば、結果とすると、中曽根さんの従来の主張であるところの首相公選制に非常に近い。 中曽根 そうです。それで、第一着になった明示された首相候補が過半数をとれば、そのまま首相になるけれども、過半数をとれない場合には、衆議院で第一着と第二着が決選投票を行う。そして、勝ったほうが首相になる。 松本 それは談合でするのではだめなのですね。 中曽根 談合ではない。決選投票というシステムがきちんと書いてある。だから、ある意味において二度やるわけですから、非常に国民は関心を持つ。これはある意味において、国民そのものが基礎作りを行うことなのです。ここは新しい条項です。 松本 今の状況では、衆議院議員を選んでいる段階で間接的には首相も選んでいるわけですけれども、あまりにもそれが密室で行われたり、考えもしない方法がキングメーカーによって作られたりする。それが国民の政党政治に対する一種のアパシーというもの、あるいは政治に対するアパシーというものを増長させたといふうな感じがあるわけですね。 中曽根 今までの例でやると、談合によって思わざる人が総理になったり、あるいはボスが運動した人間が総理になったり、要するに国民の手を離れた形で総理大臣が決められていくという例がなきにしもあらずである。それを断絶させたというのが、決選投票まで用意したということなのです。 松本 その結果とすると、国民投票に近いような形で、直接選挙に近いような形で選ばれた内閣総理大臣が政治の権能においては全て最終判断をし、行使する。そういう大統領制的な首相になるという連関性になるわけですね。 中曽根 そうです。行政権は内閣総理大臣に属する。総理大臣の専属制にしてしまってあります。 松本 戦後の憲法だと、「内閣」という非常に不明確な言葉が使われていたのを、今度は「内閣総理大臣」ということで明示しているわけですね。 中曽根 そうです。この点が新しい、または非常に大きな改正点であるだろうと思いますが、やはり首相のリーダーシップをそういう意味においては、ある程度強くしている。大体、各大臣の任免権を今でも持っていますけれども、内閣が連帯して国会に責任を持っているという意味において、総理大臣の自由はない。閣議でも合議が成立しない場合にはできなくなる。それが今の状況です。しかし、今度の場合は、内閣というのは総理大臣の補佐機関としての存在であって、内部がまとまらない場合には総理大臣の専決で決められる。そこが非常に大きく変わってくる。 松本 リーダーシップが非常に重視される。つまり、戦後の日本の政党政治の場合には、調整型の首相が選ばれることが多かった。むしろ戦前のほうが非常にリーダーシップを持って、国家をどういうふうな方向に持っていくか、そして自分の方針はどうかということを明示しているリーダー的な、そしてそれも自分で説明責任を負って、国民に説明していくという形をとりましたから、政党政治とすると、ある意味では戦前のほうが非常に健全であった。もちろん欠陥が出てきて、結果とすると軍部が台頭してきてしまうという欠陥がありましたけれども、そういう明確にリーダーシップを持った首相が国民によって選ばれるし、尊重される、そういう政治家のほうを必要とする時代になったということですね。 中曽根 そうです。これも国民主権というものを密着している要素であるわけです。 松本 逆に言うと、そういうふうな歴史哲学なり国家観なりリーダーシップを持たない人は首相になれないということですね。 中曽根 そういう形になっていきます。 松本 そしてまた、いざとなったら首相になるという明確な意識を持って、国会議員になっていく。それくらいの覚悟は当然持っていると国民のほうは今まで思っていましたけれども、どうもそうではないようで、各省の利権を代弁したり、ある組織の代弁をするだけだったりする。 中曽根 もう一つの点は、首相が提出した法案について国会と対立した場合には、衆参議院の三分の一以上の賛成を得て国民投票にすることを可能にして、それで信任を得た場合には法案を成立させる。これは非常に大きな変化を生むだろうと思います。 松本 憲法の裁判においては憲法裁判所のほうが上であるということですね。 中曽根 それを事実上、例えば最高裁というものは総理大臣が任命し、長は天皇が任命します。しかし、憲法裁判所の場合には、長は天皇が任命するけれども、半分は国会から出し、半分は内閣総理大臣が指名する。そういう形で、内閣と国会が両方責任を背負って、憲法裁判所の判事を出す。こういう形で、最高裁よりも人事の上から見て憲法裁判所を上にしてある。ただし、憲法裁判官は任期十年で、再任はない。しかし、最高裁は再任があり得る。というのは、憲法裁判をやるという場合に、継続して任期が行われるということになると、政治的判断が狂うという場合がないとも限らない。そういう意味において、任期十年くらいになっているはずですが、みんな年をとっているから、そのうち行ってしまうだろうと。(笑)そんなこともあって、再任はない。それで政治的思惑を排除している。そういう要素があるわけです。 松本 憲法裁判所の細かい規定については、多分いろいろ議論があると思いますけれども、民主党でも憲法裁判所を設けるということにおいては、基本的に同じような考えを持っています。 中曽根 多いですね。 松本 それから、最後的に出てくるのが憲法改正の国民投票の規定です。これは現在では国会議員の三分の二の賛成によって発議をするということですけれども、これはあまりにもハードルが高過ぎる。要するに絶対に改正させないというふうな進駐軍、アメリカの意識が働いていたということがありますけれども、それを半数という形にしている。 中曽根 そうです。ただし国民投票を必要とする。 松本 国民投票の場合でも半数でいいわけですね。 中曽根 半数でいい。 松本 それは要するに、憲法というものは国の原理でありますけれども、ある意味では法的な原理でもありますから、時代と共に、時代精神の移り変わりと共に変わっていかないと、実際に国家や国民というものの性格が世界の中で、歴史の中で変わっていくわけですから、国家も国民も守れないということになってくる。そういう意味で言うと、憲法という時代精神を反映するためには、もう少し改正というものを変えていかないといけない。アメリカのように三十七回も変えるというのはどうかという気がしますけれども、そういうふうなことをできる柔軟性を憲法には持っていってほしいということですね。 中曽根 国会は二分の一だけれども、必ず国民投票を必要とする。そういう意味で、今よりも改正を弾力的にやれるように、しかも国民投票という最後の関門があるわけですから、結局、国民主権というものが非常にここで響いてくる。 松本 国会の中では、言ってみれば、悪く言えばお手盛り的に、あるいは自分たちの政党の利益のためにやってしまうことができるかもしれないけれども、最終的には国民の意思を問われるわけですから、国民の意思に反して国会が動くということはできないというわけですね。 中曽根 その辺はよく考えて作ったわけです。 ── 総理のリーダーシップの問題もそうですけれども、国民主権ということをいかに実現するかということで、かなり厳密にいろいろな形で策を打っていらっしゃるのですね。 松本 そうですね。最後の憲法改正の問題も、国民主権である、国民の意思が問われるというそこのところに今日の話は一応還元できたわけで、そういう意図が明確にはなったような気がします。 |
重要事項に関する 憲法改正の真意 |