2005年 2月24日   中曽根 康弘

 皆さん、こんにちは。与謝野(馨)さんのご紹介で皆さんにお話をする機会をいただいて、大変光栄に思い、喜びにたえません。今のようなお話があったのでございますが、与謝野さんは最近は党を背負って、内閣との間で一番大事な郵政問題、その他の問題の解決に向かって全力を傾倒しておやりになっている。私はそれを横で見ておりまして、「よくやっているな。必ず彼は大成するぞ」と、あえて言えば出藍の誉れだと、そういうふうな感じもして、健闘を祈っているわけであります。

総理になる前の準備
 今日は外交と安全保障の話をしろということでありますが、一般的な抽象論を話しても意味がない。私が総理大臣として経験してきた大きな問題、事件について、その時に何を考えたか、どういう判断をしたか、そしてどういう処置をやったかということを経験的に申し上げまして、皆さんのご参考に供したいと思うのです。抽象的な話を話しても、それはいろいろな本に書いてあることで、皆さんの実感には触れることがないという気がするからであります。
 私は総理大臣になる前から、普通、代議士をやっている間も、毎日あるいは感じたことを、特に夜中にベッドへ入って、寝る前にいろいろ頭にひらめく、あるいは、朝、明け方が一番そういうチャンスも多いのですが、そのたびごとに起き上がって、大学ノートにその印象や政策を書き連ねたものです。それから、自動車に乗った時、新幹線に乗った時、やはりそういうアイデアが一番湧いてきたものであります。そういう大学ノートが三十冊くらいできまして、総理になる前にはそれらを一冊の本にして、まとめておきました。そして、総理になった時にそれらを全部総括してみて、どういう戦略と体系でいくかということをまず考えたわけであります。やはり政治家にとって一番大事な点は哲学、思想、戦略、体系を持つということであって、今かなりそれが欠落していると残念ながら考えざるを得ない状態です。

まず韓国訪問、次に米国へ──韓国語の勉強
 いろいろ準備するということがありますが、大学ノートの他に、例えば私は総理大臣になる前に行政管理庁長官をやりました。行管長官をやりまして一年くらい経った時に、いずれ総理になった場合には、まず韓国へ行かなくてはいけない。それから、アメリカだと。今までの総理大臣はアメリカへ行ってから韓国へ行ったものであります。そういう考えから韓国語を勉強しようと。向こうへ言って韓国語で演説しようと、そういう遠大な野心を持ったわけです。それで実際に韓国語の勉強を始めまして、日本経済新聞のソウル支局にいた方が帰ってきて、その方から教わったり、NHKの韓国語講座をずっと聞いたりして、韓国語を勉強しました。総理になってから韓国へ渡る前には、大体向こうへ行って行う大事な演説の冒頭の三分の一と終わりの三分の一は韓国語でやったわけであります。「チョンドファン・テトンニョン・カッカ(全斗煥大統領閣下)」という言葉から言い出した。それを聞いて、韓国の国会議員やその他閣僚の奥さん方はどよめきました。そして、奥さん方の中には、後で聞いた話によりますと、ハンカチを出して目を拭った方々が非常に多かった。我々からすれば、韓国の方は日本においでになって、日本語でおやりになる。日本の政治家が韓国へ行って、韓国語でやるのは礼儀だと、そういう感じを私自身が持ってやったのでございますけれども、それが非常な衝撃を与えたという感じであります。
 日本の総理大臣が戦後、韓国に公式に渡ったのは私が最初でありまして、金浦空港に日の丸の旗が捧げられ、国歌君が代が吹奏され、韓国の国歌と相共に並んで謹聴したものであります。そういうようなことも考えてみますと、やはり韓国語を勉強していたのは悪くなかったと思います。
 それから、行った時には町を通って我々の車列が行っても、あまり大勢の人が顔を出しているわけでもないし、手を振る人もあまりいなかった。帰る時に空港へ行く段になったら、大勢の方々が道路へ出てきて、みんな手を振ってくれた。あれを見まして、政治というものは恐ろしいものだと自分でも痛感したものでございます。

指令政治
 これは一つの例でございますけれども、私は総理大臣になりました時に、官邸で直接指示を与えて政治をやると。閣僚や皆さん方からいろいろ進言してきたことはもちろんお聞きするけれども、それ以上に自分自身がアイデアとイニシアティブと政策を持って、閣僚に「これをやってくれ。これを研究してくれ。半年後にやるぞ」と、そういうやり方で物を進めた経験が多かったと思います。私はそれを「ディレクティブ・ポリシー(指令政治)」と自分で称しました。それが大統領的手法による大統領的政治という形で行われたと思います。私は大体、総理になったら大統領的総理になろうと思っていた。というのは、今の日本の憲法を読んでみると、日本の憲法における総理大臣の力というものは、アメリカの大統領以上の力を実は持っている。ところが、戦前からの日本の天皇制のもとの内閣制度というイメージが消え去らない。吉田(茂)さんが総理になった時には、できるだけそのイメージを温存しておいて、天皇制を豊かにしておこうという思いがあって、そういうような態度をとっておられたと思います。それ以後の総理大臣は大体それを真似していた。だから、議院内閣的総理であった。しかし、私は大統領的総理をやろうと考えました。大統領的総理と議院内閣的総理──大統領的の場合には「大統領的首相」と言っていましたが、その両方をやるのだという意識で実はやったものです。そして官邸が中心にある。連合艦隊司令長官は常に旗艦にいる。私は軍艦に乗っておりましたから、そんなこともあの当時言ったものであります。

政治は結果責任である
 まず組閣をやるという段階になりましたけれども、私の基本的考えにあるのは、政治というものは結果責任だということです。いかにうまい演説をしても、あるいはいかなる立派な理想を言っても、結果が悪ければ全然だめである。演説は下手でも、あるいは政策が必ずしもうまく表現できなくても、結果がよかったら、それは大変な政治家になる。結果責任だということを考えて、今でもそのとおり思っております。そういう意味において、内閣を作るという場合には毀誉褒貶に囚われない、実際やる仕事を実行できる内閣をやればいいのだ。仕事師内閣だ。いろいろな評判や人気などで内閣を作らない。
 そういう意味で、仕事は何かといえば、行財政改革、財政再建、安全保障、G7サミットその他における対外関係である。そういうような行革、財政、外交・安全保障というものに重点を置いた人選を実はやったわけです。それで、官房長官に後藤田(正晴)さん、これは行財政改革で、大蔵大臣に竹下(登)さん、これは財政再建で、外務大臣に安倍(晋太郎)さん、これは外交問題だと、そういうような形で、党内におきましては二階堂(進)さんや金丸(信)さんというものを中心にやった。だから「田中曽根内閣」だとよく言われた。「中曽根内閣ではない。あれは田中内閣の延長ではないか」と随分言われた。それで組閣名簿を作って、実は行管長官の終わりの時に、長官室で夜、電気を消して、私一人が一本の灯りのもとに鉛筆をなめなめ、閣僚候補者やこれからの戦略政策を自分でも書いてみた。行管長官の秘書官は、私の部屋へ入るのが怖かった、凄惨な気がしたと後で言っていますけれども、やはりこちらも真剣勝負で、斬るか斬られるかの境をやろうということでありますから、第三者から見れば、そういう凄惨な感じがしたのかもしれません。しかし、本当の政治の真髄というところは、そういうところにあるのだろうということを私は申し上げたいのであります。

対韓外交戦略
 そこで、第一着手は何であるかというと、まず韓国の問題を片付けようということでした。当面の大きな目標はアメリカであります。対米政策を成功させるためには、まず悪くなっている韓国との関係を改善して、対米関係の懸案問題も解決して、それをお土産にして、そしてワシントンへ行ってレーガンに会って、それでスムーズに仕事を開始しようと、そういう戦略を実は持ったわけです。普通の人はみんな先にアメリカへ行っていました。私は瀬島龍三さんを呼びまして、というのは、全斗煥大統領に就任の挨拶で電話をした時に、「よろしくお願いいたします」と言ったら、「あなたがおいでになったのなら、こちらもよろしくお願いいたします」という返事があった。これは脈があると思ったからです。というのは、韓国との間はほとんど断絶状態にあった。金融・経済協力問題があって、前の日本の外務大臣が「もらうほうが金額をとやかく言うという手はあるまい」というようなことを言ったものだから、韓国はカンカンに怒ってしまって、途絶してしまった。それをいかに突破するかということを考えたわけです。
 そこで瀬島龍三さんを呼んで、彼は士官学校や陸軍大学で当時の韓国の軍の中枢や政治の指導者と非常に面識がある。前に何回も韓国へ渡っている。私はそれを知っていたものだから、「すまないけれども、密使になって、やってくれ。そして、この問題を解決してくれ。私がアメリカへ行く前に解決するのだ」ということを言って、瀬島さんは承知してくれて、向こうの幹事長と会談した。ソウルでやると目につくものだから、大阪でやったり、金沢でやったり、釜山でやったりしたものです。そして、十二月二十八日に瀬島さんから電話があって、「まとまりました」ということでありました。四十億ドルの借款、三億ドルの無償、たしかそういうような内容で解決した。向こうは最初六十億ドルと言っていたものであります。それで一月十一日にソウルへ公式訪問しまして、先ほどのような光景に会ったわけであります。
 しかし、韓国語でやったのを非常に喜んでいただいて、全斗煥大統領は「中曽根さん、一杯やろう。これだけではもったいない」と言って、大統領官邸の傍にあるカラオケのできる部屋へ一緒に行って、カラオケをやって歌を歌った。私は「ノラン・シャツ・イブン(黄色いシャツを着た男)」というのを歌いましたが、韓国大統領は日本の歌をまた歌ってくれたのです。それで抱き合った。それがやはりスタートであったと思います。
 その十二月のその前の終わり頃までに、実は武器技術供与問題というのが前の内閣からあって、アメリカに対して武器技術を供与するということを、日本は渋ってやらなかった。「やる、やる」と言っても延ばしていた。それを私は法制局を説きまして、法制局長官は「これは憲法違反になる」ということで逃げていたわけです。しかし、武器の実物を作って渡すというのなら問題だろうけれども、「技術という知識を渡すというのは憲法違反になるわけがないではないか。そういう解釈にしなさい」と私は言いました。いろいろ反対はありましたけれども、「A案とB案の二案を持ってこい」と言って、私は私のB案をとるという形で、実は武器技術問題を解決した。

対米外交戦略
 韓国訪問と武器技術問題が解決したというのが、実は大きなお土産になって、一月十一日に韓国へ行き、一月十八日にワシントンDCへ行って、レーガンに会って、第一回の会合をやったわけであります。そういう状況で行ったものだから、大歓迎を受けた。実は向こうはどんな人が来るのかという気持ちで見ていたようでありますけれども、実績を見て、非常に温かく迎えてくれました。普通ならばそんなことはないのですけれども、レーガンさんのホワイトハウスのプライベートセクションの個人的な食堂で朝食をご馳走するから、家族で一緒にやろうというわけで、私は家内と娘の美恵子を連れて、向こうの奥さんも出てきて、食事をご馳走になりました。その時にレーガンさんが、「これからファーストネームで呼び合おうではないか。ヤスと呼んでいいか」と言うから、「もちろんOKだ。では、私はロンと言うよ」ということで、それ以来、ロン・ヤスという関係になった。そういうふうに、韓国関係、アメリカ関係というものを実は打開したのが、私の外交のスタートであります。
 しかし、その最中に、ワシントンポストのグラハム社長の朝食会があって、その時にワシントンポストの記者からいろいろ質問があった。その中で日本の防衛という話をした時に、「不沈空母」という言葉が出たというのです。私は不沈空母という正式な言葉は使わないで、「大きな船だけれども、外国の飛行機の侵入を許さない防壁を持った船である」ということを言ったのを、通訳が「不沈空母」という通訳をした。それがアメリカ中の新聞に出たわけです。そういうのを見て、今までアメリカ議会にあった日本に対する不信感が一掃された。その代わり、日本の新聞ではさんざんやられたものであります。「軍国主義者ではないか」とか「日本の名誉を汚しているではないか」とか、いろいろ言われたものであります。しかし、私は前から言っているように、政治は結果であるという信念を持って、その問題を貫いてやったものであります。
 それから次に出てきた大きな問題というのは、G7サミットが五月にあった。G7サミットをやるその前の日にレーガンさんとも会って、閣僚会議もやったのですけれども、その最中に私が感心したのは、お昼の頃でありましたが、いつの間にか海兵隊員が閣僚を取り巻いて、バースデーケーキが運ばれてきた。何かと思っていたら、五月二十七日は私の誕生日だった。それを彼らは調べておいて、海兵隊がハッピーバースデーを歌い、閣僚の皆さんも一緒になって歌って、私はバースデーケーキをとらせていただいた。こういうことが心に沁みることなのです。普通のアメリカ外交では今まで例のないやり方であります。それがレーガンらしいやり方なのであります。あれだけの大まかな大局観を持って、断行力のある一面において、そのような非常に細やかな愛情のある措置も片方ではやっている。レーガンが人気もあり、偉大な大統領であったということを私はしみじみと感じた。

ウィリアムズバーグ・サミット、ミッテラン仏大統領説得
 そのウィリアムズバーグ・サミットの場面で大きな問題が起きた。それは何であるかというと、ソ連がSS20という中距離弾道ミサイルをヨーロッパに展開した。それに対して、自由世界が撤去せよと言う。ソ連は言うことを聞かない。撤去しないなら、こちらはアメリカのパーシング2を展開して、そして、いざという時にはやるぞと、そういう交渉が行われたわけです。それでG7サミットにおいても、いざという時にはパーシング2を展開することを認めた。十二月までにソ連が言うことを聞かない場合にはそうするということを認めた。その共同声明を出す時に、「安全保障は世界的(グローバル)で一体である」という文章が入っていた。そうしたらミッテランさんが反対して、「我々はNATOの軍事同盟には入っていない。したがって、そういう一体であるというようなことでアメリカの下に付くということは、我々は許せない」と言って、絶対反対を表明したわけです。そうしたら、ドイツのコールさんもフランスと関係がありますから躊躇しているし、カナダの総理も似たような感じを持ってきた。それで、レーガンさんやサッチャーさん、その他の人々が必死になって口説いたけれども、「ノン、ノン」と言って言うことを聞かない。
 最後に私が出ていきまして、「ミッテランさん、よく聞いてくれ。私の国には憲法九条というものがあって、軍事力の行使はもちろんできないし、今まででもこういうサミットで安全保障について日本の総理大臣が発言したことはないけれども、私はあえてやるのだ。もしこれで会議が潰れてしまったら、一番喜ぶのはソ連なのだ。我々がここでソ連を追い詰めて、もう一息というところまで来た時に、この会議が潰れるというようなことは我々にとっては耐えられない事件になる。私はここでこういう発言をして、日本へ帰ったら、またさんざんやられる。『お前は憲法九条を忘れたか。日本の国是を忘れたか』とやられる。私はやられても、あえてここで、ソ連をやっつけるためには、必死になってみんなでやらなければできないから申し上げるのだ。分かってくれ」という話をしたら、ミッテランさんは黙った。それをレーガンさんがパッと呼び鈴を押して、シュルツ長官を呼んで、「こういう文章でいけ」とやったわけです。
 そういうことがあって、それを外国の新聞記者がみんな見ているわけです。それで、アメリカやヨーロッパ、世界の新聞記者たちが「日本の中曽根というのが新しく出てきたな」ということも感じ、アメリカ議会の連中が私を非常に評価してくれまして、それ以来、ロン・ヤス関係、日米関係というものが特別の親密関係に入って進んだ。そういうイベントがあったわけであります。
 「不沈空母」という言葉が新聞に出た時にはいろいろありましたけれども、私は「あれは誤訳ではない。あれでよろしい」と言いました。というのは、それが新聞に出たために、アメリカのワシントン、ニューヨークにあった今までの内閣の対日不信感、それは武器技術供与まで認めていったわけですから、それが一掃されて、電気的刺激療法として、それは効いたわけです。今までの不信感が一挙に消えたものです。だから、「不沈空母」を消すなと言った。その代わり、日本ではさんざん叩かれたものであります。
 ですから、国内的な世論というものと、国際的な日本の主張というものをどう通すかというのは、非常に矛盾する場合がある。特に日本の場合はポピュリズムが強いですし、新聞の力が強い。しかし、それをあえて突破するというのには、相当な見通しと戦略をもってやらなくてはできない。そういうことを申し上げるのであります。
 そして、ウィリアムズバーグ・サミットで私がもう一つ言ったのは、「生命科学と人間の尊重・尊厳」という会議を開かせようではないかということです。というのは、遺伝子工学がどんどん発達してきて、何が出てくるか分からない。だから、サミットにおいて各国が交互に権威者を集めて、科学者や宗教者まで集めて、それを検討させようと。そういう話をしたらみんな驚いて、大体サミットというのは経済サミットと言われていたわけです。日本の総理大臣が安全保障などに口を出すこともないし、いわんやそんな文化問題など出すことはなかった。それをあえて言ったものですから、ミッテランさんが一番驚いて、彼は賛成した。それ以来、七回そういう会議をやりまして、そのリポートを大学や研究機関にみんな我々は送ったものであります。

ボン・サミット、農政対立打開
 ある意味において、自分の自由な発想で、自分の信念を持って貫いていく。それはやはり外国人に対して本当であるならば感動を与え、支持をもたらす。そこでいい加減なことをするということが一番だめだと、私はしみじみ感じたわけであります。
 似たようなことは、やはりボン・サミットでもありまして、この時も実はアメリカとヨーロッパが農業問題で対立して、ヨーロッパはフランスを中心に保護政策、アメリカは開放政策だった。それでアメリカと協調するために、実はフランスを除いてヨーロッパの国のトップが朝食会を内緒でやって、いろいろ打ち合わせをしたらしいのです。私はそんなことは知らなかった。それをミッテランさんが知って、烈火のごとく怒って、「我々だけを排除するとは何だ。もうこんな会議はやめろ。来年の東京サミットも出ない」と言いまして、それを口説くのが一番大きな仕事にボン・サミットではなった。私はまたねっちりやった。「私の国の農業はあなた方よりももっと保護を要求している状況なのだ。しかし、世界全体を考えてやっていく場合には、国に帰って農協の皆さんを説得しなければならない。しかし、あえて私はそれをやるのだ。というのは、サミットが結束することが大事だからだ」というような話をして、ミッテランさんはとうとう黙って、うまくいったわけです。
 最初のウィリアムズバーグ・サミットの場合と、ボン・サミットのその翌朝、実はレーガンさんはシュルツ長官を私の宿舎まで送り込んで、お礼に来てくれました。国務長官が日本の総理大臣の宿舎までお礼に来るなどということは、今まで例のないことです。それはウィリアムズバーグとボンであったから、私の記憶には非常に残っているところです。

ベネチア・サミット、ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム
 もう一つ大事なことは、ベネチア・サミットというのが最後にありましたけれども、その時に私はやはりサミットの最中に「ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム」をやろうということを言い出した。というのは、生命科学がどんどん進歩していく。今や生命科学がいよいよ大事なポイントまで来ている。ついてはサミットの構成国で皆さんを集めて、生命科学を世界中で、どういう倫理的規定まで置いて、どこまで進めるかをやろう。進めなければならない。しかし、倫理規定もまた大事な問題だ。そういう意味の生命科学のためのヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラムをやろうと言って、これは各国が回り持ちではなくて、一つの組織として作ろうとした。日本はお金を相当出す。毎年、大体三十六億円出しましたが、半分以上を日本が出した。他の大統領、総理大臣も賛成しまして、それがずっと続き、世界中の組織ができて、世界中の学者がチームを組んで、補助金をもらう申請をする。そのために組織が要るというわけで、ストラスブールにその本部ができて、全世界の学者を相手にして、生命科学の研究を申し込ませて補助金をやる、そういうことを今も続けて実はやっている。
 なぜこれをやったかというと、今でも多少そうですが、日本の科学というのは技術だけだと。日本は基礎科学をやらないという評判が非常に強かった。やはり日本も基礎科学を真剣にやるのだということを示す必要があるし、今時代で一番大事なのは何かということを考える必要がある。それが生命科学だ。そういう意味で、ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラムという名前にして、組織を作ってお金を出して、各国協力で各国の学者を網羅してやる。大体イギリスの学者が今ある程度中枢におりますけれども、フランス、イギリス、ドイツ、日本、アメリカというのが進めているのであります。

サミット心得
 今まで考えてみると、日本の政治家が世界のサミットでそんなことを言い出すなど、考えられなかったことです。しかし、我々はサミットでも同等だ。実は最初にサミットに出る時に、新米ですから非常に気後れがした。しかし、自分で考えてみて、いろいろじっと瞑想して、どうするかと考えてみて、「それはサッチャーさんであろうが、レーガンさんであろうが、コールさんであろうが、ミッテランさんであろうが、教養と知識においては私は負けない。学問においても彼らには負けない。私はあの人たち以上の勉強もしているつもりだ。だから、堂々とやろう。いざという時には知的勝負をやろう」、そういう自分なりの自信を自分に言い聞かせて、そしてサミットに臨んだものであります。それがやはり臆せずに物事をやる、心臓を強くしたといえば、そういうことでしょうけれども、知的レベルにおいて自分は劣ってはいないのだ、彼らより負けてはいないのだという自信を自分自身に言い聞かせてやったというのが、今考えると一つのポイントになっていたと思うのであります。

大韓航空機事件
 もう一つ大きな事件は、大韓航空機の撃墜事件というのがあった。これは一九八三年九月にアラスカの上空から飛んできた韓国の大韓航空機がサハリンの上空で迷い込んで、ソ連の戦闘機に撃墜された事件です。二百六十九名が亡くなってしまった。それをロシアは自分の国ではないと、最初から最後まで自分の国の戦闘機が落としたということを承知しなかった。しかし、落としたのは午前二時から三時頃の間で、私のところへ朝六時頃「落ちたようだ。原因はよく分からない」、朝八時頃になると、「どうもソ連戦闘機が落としたようだ」という情報が入ってきた。それをどうするかという問題で、後藤田長官とも相談をして、もっと真相を究明しようとなった。それで、いろいろ真相を究明して、お昼頃に確信を持った。というのはなぜかといえば、撃墜したソ連戦闘機と地上のソ連の航空司令部との間の問答をこちらがキャッチして、とっていた。ですから、これは厳然たる証拠になっている。戦闘機が「落としていいか」と言ったら、「ダー、やれ」と、そういうところまで分かった。
 そこで、韓国には「どうもお宅の飛行機が落とされたらしい」というのがお昼に通告して、アメリカにもその旨を通報して、そして夕方くらいまで公式の発表は控えて、様子を見ていた。安倍外務大臣とも相談をして、安倍君もしばらく慎重にしていようと言った。夕方になって、アメリカがいよいよ発表したいというようなことがこちらへ漏れてきたものだから、アメリカに先に発表させる手はない、日本が発表すべきだということになった。そういうわけで安倍外務大臣が会見をして、そして新聞記者に「こういうわけで、これはソ連戦闘機が落としたものと認める」ということを公表したわけです。それは世界に一遍に通知されたわけです。それでもソ連は「私のほうではない」と否定し続けていた。
 国連の安保理事会で、これがいよいよ問題に上がってきた。ソ連はあくまで「私のほうではない」と言い張った。そこで私は考えて、「ソ連がこういう歴然とした分かっていることまで隠してやるということは、世界の平和のために絶対許してはならない。将来にいろいろな禍根を招く」、そういうことを考えて、レーガンともいろいろ連絡して、我々が持っているデータをアメリカに渡して、安全保障理事会の公開の場でそれを公開してやってしまえという話をして、アメリカはそのとおりにやったわけです。それで、共産ソ連は一遍に参ってしまった。それで、彼らは認めて謝ったという事件が起こったわけです。国際関係にはいろいろな事件が起こると思いますけれども、そういうようないろいろなケースが起きた場合に、どういう判断をするか。そして、どういう戦略や体系でこれを持っていくか。それが政治家にとって一番大事な問題なのであります。米国上院は私に感謝決議をしました。

防衛費一%突破
 最後に一つ申し上げたいのは、防衛費一%突破という問題です。これは三木(武夫)内閣の時に、日本の防衛費はGDPの一%以内ということを決めたわけですけれども、これは非常に不合理なことである。〇・九%の場合もあれば一・二%の場合もある。客観情勢によって、国防というものは動いて変わっていくものだ。だから、一%という枠は撤去する。ということは、一%を突破するということを前提にして話しているのではない。そういう性格自体が間違っていることなのだ。そういう意味で、一%突破を実行しました。これも随分、議会ではやられ、また新聞でも叩かれましたけれども、今はもうそれが普通のことになっているという状況であります。

外交処理判断基準
 さて、いよいよ最後の結論になりますが、こういう外交問題、大きな問題、例えばイラク問題のような問題を判断する時に、政治家が判断するというのは、次の三つを考え併せる。一つは国際法だ。しかし、国際法だけではない。さらに大事なのは、この問題が二年、三年、五年後、どういう影響をもたらすか。イラク国民が喜ぶか、あるいは逆になるか。あるいはそれによって湾岸の民主政治が多少変わってくるか、あるいはテロが抑制されるか。そういうある程度時間帯をかけた結果まで読んでいないといけない。少なくとも五年先を見ないといけない。そして、最後に国益であります。そういう意味において、北朝鮮対策を考え、イラク問題でアメリカが弱ってはいけないから、アメリカを支援する。そういう意味で、イラクに対してアメリカが攻撃をやった時に、私は支持しましたけれども、その考えの根底にあるのは、そういう政治家的判断であります。これは学者によっては判断も違うかもしれませんが、我々のような仕事をしている者の判断は、やはり一つは国際法、もう一つは歴史的影響がどう出るかということ──イラク国民が喜ぶか、喜ばないか、そして国益を考える。そういうボリュームのある判断をしなければならないと言っている。

外交処理原則
 それから、外交について前から言っているのは、四原則を言っている。一つは、国力以上のことをやってはいけない。大東亜戦争を反省して考えている。二番目は、外交は賭けでやってはならない。三番目は、国内政策と外交政策を混交してはならない。四番目は、世界の潮流に乗った判断をしなければならない。大東亜戦争というのを考えてみると、まず国力以上のことをやってしまった。冒険(ギャンブリング)をやってしまった。そして、今言ったような、世界の潮流から外れてしまった。そういうような考えから、外交四原則ということを私は前から唱えている。
 それで、何か事をやる場合には、それに対する原則をまず私は考えることにしている。例えば、北朝鮮問題については、これも五原則を五、六年くらい前から言っています。台湾問題についても、中台五原則ということを言っている。
 北朝鮮問題はどういうことかといえば、一つは、部分的解決はない、包括的解決だ。二番目は、大量破壊兵器と拉致の問題が第一関門だ。三番目は、韓国に与えた以上のものを北朝鮮に与えてはならない。四番目は、経済金融協力は最後の段階だ。五番目は、アメリカ、日本、韓国が一体になってやる必要がある。そういう原則を自分で設けている。
 それから、台湾問題について五原則というものを前から言っているのは、私の本にも書いてありますけれども、一つは、日本、アメリカが中国とやった条約を守る。というのは、要するに中国は一つであるということを言っているが、そういう認識に対する配慮を持つということです。二番目は、中国は台湾問題については平和統一に徹すると言いなさい。いざという時には軍事力を使うということを今まで言ってきたけれども、それは言わないほうがよろしい。三番目は、台湾は国連に入るとか、独立するということは言わない。四番目は、両岸の交渉をやる、中国と台湾で政治交渉をやる。最後は、三通政策(通商、通行、通信)を実行する。この五原則をやりなさいと私は言っている。
 台湾の方がおいでになるし、また中国の方もおいでになれば、韓国の方もおいでになるが、私はいろいろ聞かれると、そういうことで答えている。やはりいろいろなこういう大きな国際問題があった場合には、政治家あるいは指導者というものは、自分の判断力というものをまず持ってやらなくてはいけない。これが大事なことだというふうに申し上げるのであります。

国防の基本方針改正
 それから、もう一つ大事な点は、「国防の基本方針」というものを、このままにしておいていいかという問題です。これは昭和三十二年に作った基本方針です。皆さんは読んだこともないと思いますが、実は一九七〇(昭和四十五)年に私が防衛庁長官になった時から、これを直そう、直そうと言って、佐藤(栄作)さんは賛成して、防衛庁長官と官房長官と愛知(揆一)外務大臣の三者会談まで開いた。ただ官房長官の保利(茂)さんが消極的で、とうとうそれはできなかったのだけれども、佐藤さんは実はある意味においては賛成していた。
 「国防の基本方針」を読んでみますが、今、「防衛計画の大綱」や中期計画、トランスフォーメーションなど、大きな変化が起きつつある。そして、日本の防衛のみならず、国際協力という面も日本は張り出してきて、防衛庁は前進しているわけです。そういう面から見ると、この「国防の基本方針」は当然もう改正しなければならないところまできている。
 「国防の目的は、直接及び間接の侵略を未然に防止し、万一侵略が行われるときはこれを排除し、もつて民主主義を基調とするわが国の独立と平和を守ることにある。この目的を達成するための基本方針を次のとおり定める。」──その基本方針が問題だ。
 「一、国際連合の活動を支持し、国際間の協調をはかり、世界平和の実現を期する。」──これは理想である。
 「二、民生を安定し、愛国心を高揚し、国家の安全を保障するに必要な基盤を確立する。」──これも当然である。
 「三、国力国情に応じ自衛のため必要な限度において、効率的な防衛力を漸進的に整備する。」──これは今までやってきた。
 「四、外部からの侵略に対しては、将来国際連合が有効にこれを阻止する機能を果し得るに至るまでは、米国との安全保障体制を基調としてこれに対処する。」──これで今まできたわけです。
 この中にないのは何かというと、文民統制がない。一番大事な国防や防衛という問題については、政治や国会というものが監督しなければならない。そういう一番大事な問題がまず欠けているでしょう。二番目は、日本の防衛庁なり日本国家の主体性というものが、ややもすれば国際連合と安保条約で逃げている。これではならない。もっと主体性を持って、自らの国は自らで守るということをもっと強く打ち出すべきである。国連や安保条約というのは補完的な作用として考えなければならないでしょう。それから最後は、最近のように日本の防衛力も国際協力まで展開しなくてはならない。そういうような点で、「国防の基本方針」という問題も、もうそろそろ改正に向かって努力しなければならないと思うのであります。

東アジア外交
 いろいろまだ申し上げたい点がありますが、これからを見ると、東アジア外交というものが非常に重要な問題になる。実は遅れをとっている。中国は東アジア外交に対しては非常に前進して展開しています。これは新しい今の胡錦濤政権が成立した時からそれをやっていて、中央アジアの方面のキルギスなど、あの辺の国を上海に集めて上海宣言をやって西を固め、ASEANのほうへ今出てきて、FTAでASEANと経済協力を固めている。そして、ASEANが友好協力条約を作ったという場合には、すぐに加入した。日本は八カ月遅れて入っていった。
 それから、北の方面においては、北朝鮮の六カ国協議において、中国はリーダーシップを握ってやっている。アメリカはイラクで忙しいものだから、「中国さん、よろしくお願いしますよ」という形になっている。この六カ国協議というものは、北朝鮮問題が終わった後でも、北東アジアの国際関係の問題では必ずこの会議が招集されると思う。恐らく中国はそれを読んで、リーダーシップを握っているのだろうと思います。そういう面から見ても、やはり日中関係という問題がスムーズに展開しないと、それがずっと影響を及ぼしていって、日本の東アジア外交というものが中国から見れば非常に遅れている。これを何とか打開しなければならないというのは、我々が本当にこれから考えていかなくてはならないところであります。

政治指導者
 以上で大体、私の話を終わりにいたしますけれども、やはりいろいろなことを申し上げてみても大事な点は、政治指導者の存在という問題です。それと同時に、彼らがいかなる歴史観と、ある意味においては宗教性を持って、深みを持って、中長期的思慮で外交を展開する力を持つかどうかという問題であります。そして、時代をリードしていく人が出てこなければいけない。今ちょうど明治維新の時とよく似ているのです。明治憲法をその後に作りました。マッカーサーが来て負けて、昭和憲法です。いよいよ戦後六十年経って、六十年の清算をやるという段階になって、新しい憲法を作ろうという段階になった。明治憲法、昭和憲法、平成憲法。明治憲法の後にも大変革があり、昭和憲法の後にも大変革があった。平成憲法が制定された場合には、二十二世紀になって大きな変革が社会的にも行われる。それは私に言わせれば、三年から五年くらいの間に実行しなければならないと言っている。言ってみれば、教育からあらゆる問題について、戦後六十年の清算をやる。そして、日本の国是を決める。日本のファウンデーションをしっかりと片付けて、国家像と国家路線を明確にする。それが我々のこれからの大きな仕事なのです。
 明治維新の時には佐久間象山みたいな人が勝海舟や坂本龍馬、その他を教えていた。しかし、残念ながら現代においては佐久間象山みたいな人はいない。大東亜戦争の前には徳富蘇峰という人がいて、もちろん戦争を鼓吹するような責任を負ってしまった。現代、私らはどういう哲学と思想を持ち、どういう戦略と体系を持って日本を作っていくか、これをみんなの大きな課題として作り上げていかなくてはならないということを痛感しているものであります。
 以上で私の説明を終わりにいたします。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

( 以  上 )


※本文は、二〇〇五年二月二十四日、自民党本部で開催された自民党立党五十年記念講演「外交と安全保障、国際関係」の原文です。
  日本の外交戦略